っていうか今日は「君」に感謝をするとき

さとしが生まれて32回目の11月26日です。

私にとっておおのさとしという人はどうにも無条件に心のやらかいところを掴んでくる人なので、その魅力や“ここが好き”というところについてあまり語ることがないのですが、今日くらいは私とさとしについて。
私という歪な主観を通したおおのさとしについて。

私は2007年頃からのいわゆる花男新規でさとしとの思い出はそれほど多くないのですが、いまだにさとしが嵐として終わることなき快進撃を続けている姿を見るとぼんやり「ああまださとしは嵐にいるんだなぁ」と軽く驚いてしまいます。
嵐担なうだった時も、嵐さんの驀進に着いていけなくて少し離れた時も、いつもどこかでこの人はある日ひょいっと色んなものを捨てて、へらりと笑ってどこか遠くに行ってしまうのではないか、と漠然と思っていたわけです。

もう一つ、さとしが嵐を離れて一人でお仕事をするとき、たとえば矢野健太として一人でタモステに出たときなど、私はいつもさとしが一人でテレビ(しかも生放送…!)なんか出て大丈夫なんだろうか。ああハラハラ心配だ心配だ心配だとエアおかんぶりを発揮していました。
さとしはそんな一オタの想いなど全く届かない場所でさらりと色んなことをやってのけ、私はそのたびにああさとしって私が思ってるよりもずっと自分の足で立ってるんだなぁと自分の過剰なおかんぶりを恥じたものです。

本当は分かってるんです。
さとしは私なんかよりもずっとしっかりしており、芸の道を自らの足で、周囲の人の応援も得ながらしっかりと歩んでいける人で。
可愛らしい外見とは裏腹に非常に男らしさを持った人ですし、私が思うほど純粋無垢でもなければ生き方を知らない不器用な人間でも、危うい自由を選ぶ人でもないはずだと。


それでも思わずにはいられないんですねぇ。

さとしはずっとここにいてくれるかな。一人でできるかな。嫌な思いをしていないかな。今楽しいかな。楽しいといいな。

“担当”の定義など存在しないとは思いますが、今振り返り、さとしはまさしく“私の”自担であったのだなぁと。


さとしがいなければ私は嵐さんにハマることもなく、嵐さんにハマることがなければジャニーズの世界を知ることもなく、ジャニーズの世界を知らなければ触れられなかったたくさんの興奮と笑いがあり、それらの興奮と笑いがなければおそらく私は違った私になっていたことでしょう。

しょうもない私ですが、きっと一生会うこともないおおのさとしという人間によって形成された一部分は私だけの宝物です。
私がさとしにできることはたまにお金を落とすことと万が一金田一道ですれ違っても知らないふりをして通り過ぎることくらいですが、そんなきっと!ずっと!一方!通行!!な関係もなかなかオツなものですね。

さとしに願うことは今も昔も一つです。
できるだけ長い間、この世界にいて楽しそうな姿を見せていてほしい。


お誕生日おめでとうございます。
そして心からありがとう。


たぶん最初で最後の私の自担。その活躍を心から祈っています。